オジサンのつぶやき
   【平和の火】

先週の朝刊の片隅に、ある人の「死亡記事」が載っていた。
その人は、原爆の残り火を59年間、守り続けてこられた福岡県星野村の、『山本達雄』さん。
今までに断片的には話しを聞いたことがあったのだが、このたび彼の事績が書かれたサイトから
足跡を紹介し、益々きな臭くなっているこの日本での平和の火の意味合いを考えたいと思う。

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■美しき星野村■
福岡県の南東、大分県との県境、吸い込まれるように杉木立の合間を縫って細い
道をたどって行くと、そこに星野村がある。星野村には、何よりも強く人の心を
とらえて離さないものがある。それは、1945年8月6日以来59年間、一度
として絶えることなく燃え続けている火、広島に投下された人類史上初めての
原子爆弾の火、すなわち、世界で唯一の「火」である。

なぜ広島の原爆の「火」が、遠く離れたこの星野村で燃え続けているのだろう。
それは、山本達雄さんがいなければあり得なかったであろう。
物語は1945年の暑い夏にさかのぼる。

■広島の生き地獄■
星野村で生れ育った山本さんは、三度目の召集令状を受け、当時広島から130Kmほど東、
豊田郡大乗村の陸軍野営部隊で任務に就いていた。8月6日、山本さんはいつもの通り、
広島近くの宇品にあった本隊に向かうため、汽車に乗っていた。

そして午前8時15分。突然、車中を白っぽい光が通り抜け、大地を揺がす途方
もない爆弾音が・・・。
汽車はそのまま止ってしまった。広島に原爆が落ちた瞬間だった。
 
乗客は大混乱に陥った。山本さんは何が何だか分からないまま車外に飛び出し、
広島方向に向って歩き出した。市内革屋町で金正堂書店を営む叔父・山本彌助
(当時五十六歳)の安否が気掛かりであった。叔父は当時、町内会長として疎開もせず一人踏みとどまっていた。
 
しかし、市内に近づくにつれて目の当たりにしたのは、男女の区別もつかないほど焼けただれ、
よろよろと逃げ延びてくる人々、そこかしこに転がる黒焦げの死体、
断末魔のうめき声と助けを求める手・・・その惨状は、この世のものとは思えない地獄絵であった。
巨大な火柱となって激しく燃える広島の町。

山本さんは、一歩も前へ進むことができなかった。
翌日から山本さんら部隊は、死に絶えた広島にトラックで通い、死体を集めて焼くなど、
重い任務にあたった。やがて8月15日になり、戦争は終わった。

■火をカイロに■
半月後、復員命令が出た山本さんは、父親代わりに自分を育て、かわいがってくれた
叔父の行方がどうしても気になり、帰郷前にぜひとも確認しておきたいという悲愴な思いで現地に赴いた。
別れを告げるためでもあった。
 
夜は美しい鈴蘭灯でにぎわっていた商店街は、一瞬にして一面の焼け野原と化していた。
幾日も必死になって捜した揚げ句、何の手掛かりも見出せなかった山本さんは、
せめて遺骨代わりになるものはなかろうかと、押しつぶされていた地下壕に降り、
くすぶりの中でまだチロチロと燃え続けていた小さな炎を発見した。

何か生き物のように思え、形見として持ち帰ろうと考えたとき、寒い冬に出征する際、
祖母が孫の身を案じて持たせてくれたカイロを思い出し、奉公袋から取り出した。
一本のカイロ灰を炎にそっと近づけてみた。炎はすぐに燃え移った。
1945年9月16日のことである。
 
その後、故郷の星野村に帰った山本さんは、大切に持ち帰った火を仏壇に灯し、
それを絶やさないために、いろりや火鉢にも移し、23年間、雨の日も風の日も、
隣家にさえ漏らすことなく、家族とともにひそやかに守り続けたのである。
 
しかしその歳月は、山本さんにとって決して生易しいものではなかった。あの言葉では
到底表現しようもない無残さ、原爆投下国に対するどうしようもない感情、
そして火を絶対に絶やしてはならぬという心の重荷、負担。

一時は苦しい胸中の思いを晴らすため、ハワイの上空で火を消そうと考えたこともあったという。
村の消防隊支部長をしていた時のことである。しかし同時に、あの悲惨な死に方をした何十万人という
人々の気持ちを忘れてはならぬという思いも強くなり、とても火を消すことはできなかった。

こうした苦痛に満ちた複雑な思いを簡単には人に語れぬまま、20年以上の月日
が流れた1966年のある日のことだった。もう汗ばむほどの季節になっていたのに、
まだ家族がこたつに火を入れているのを、その時たまたま茶の取材で山本さん宅を
訪れていたある新聞記者が不審に思った。そして戦争の話をきっかけに、
山本さんはその記者に対し、積りに積っていた長年の思いを全部爆発させてしまった。
これで「原爆の火」が初めて世に知られることになったのである。

■火を村に■
その後、話は少しずつ広まり、当時の星野村の橋詰喜三郎村長の耳にも入った。
そして全村民の要望として、火は平和を願う供養の灯、世界の平和の道しるべの
火として永遠に灯し続けるために、星野村に正式に引き継がれることになったのである。
 
1968年8月6日、原爆の残り火は山本さんの家から星野村役場前に建立された
「平和の塔」に無事移された。山本さんは当時を振り返り、
「火を村に渡すときは、心の整理もできて平和な気持ちになっていました」と語っている。

この日、一家のものでしかなかった火が、平和の誓いの火として、村の火に、世界の
火になったのである。以来、星野村では毎年8月6日、村を挙げて平和式典を続けている。
午前8時15分に村中にサイレンが鳴り渡り村民は黙祷を捧げる。

小・中学生代表による作文朗読なども行われ、次世代へ平和の意味を伝える大切な催しとなっている。
1988年には、ニューヨークの国連本部で開催された国連軍縮特別総会に
向けた平和の火リレーにも用いられた。
 
さらに、被爆50周年を迎えた1995年3月には「星のふるさと公園」の一角に、
新しい「平和の塔」が建立され、福岡県被爆者団体協議会による「原爆死没者慰霊の碑」とともに
「平和の広場」として整備された。
 
緑あふれる山あいを見渡す小高い丘の上、さわやかな風と時折聞こえてくる、
鳥のさえずりに包まれた広場に立つ高さ5メートルの「平和の塔」。その最上部に
「平和の火」が燃えている。炎は一見小さいが無限のエネルギーを放射している。
 
「平和の塔」の石を基調としたシンプルな三角形の形態は、自然に人を祈りへ誘う力を秘めているようである。
モニュメント制作を手掛けた彫刻家・横沢英一さんは、
「時とともに戦争反対への意味を深めていける存在になってくれればという願いを込めて、
何次元にでも広がるデザインにしました」と語っている。
塔の前には命の象徴である水をたたえた水盤が置かれている。

■永遠のメッセージ■
戦後はふるさと星野村でずっと農業を営んできた山本さんは、原爆の後遺症で身も心も
筆舌に尽せない苦しみを味わってきた。だが今は、忙しい農作業の合間、
遠くの山々を見つめながら「もう村に火を渡してからの方が長くなって・・・」
と感無量の表情である。「村が火を大切に維持してくれているのでうれしい。
火を通して少しでも平和について考えてもらえれば」。と同時に、
「今や原爆さえおもちゃのようになっている恐ろしい時代です。人間同士が殺し合うような
やぼなことはもうやめてほしい。人間はみんな同じ。肌の色の違いなんて関係ないで
しょう」とキッパリとした口調で語る。
 
山本さんが人類にとって永遠の火を採取した場所は、現在では広島の中心地に
位置する商店街として、再びにぎわっている。金正堂書店も、亡くなった叔父の娘
である君枝さんに引き継がれ、今日に至っている。街を行き交う人々の明るい語
らいを耳にしながら、あの火の心がこれからも受け継がれ、広がっていくことを
願わずにはいられない。
 
何ら叫び声を上げることもなく、星野川のせせらぎや夜空の星々とともに、世界
へ向けて静かな光を放ち、燃え続ける星野村の火。それは何よりも雄弁である。

<2004.5.16>



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