| 【国際化】 |
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「国際化」という言葉は、周囲が海に囲まれ地続きに「隣国」に行くことのできない日本人にとって 不得手な言葉かも知れない。 むしろ「国債化」の方が馴染みがあるといってもよいだろう。 なにしろチョット前までは、「国際化」するには「国際人」にならなければならないと考えて 猫も杓子も「英語」と言う特定国の母語を一所懸命勉強したもんである。 オジサンたちの世代は「中学校」時代の、ペンを指さして「This is a pen」と言って得意になっていた 頃から人によっては「大学」まで行って延べ10年近く「英語を勉強した」という思い出だけが残り、 帰国子女たちの達者な英会話には「????」という世代である。 このような「失敗例」からの反省なのか、文部科学省が「小学校から英語を学ばせろ!」という。 この号令の元、英語を勉強する時間を授業に取り入れる小学校は、全国で12000校に上る。 学年別では公立小学校の6年生の56.1%が英会話の授業を行っており、3年生でも51.3% に上るという調査結果がある。正式な科目になる日もそう遠くないのかも知れない。 しかし日本の歴史すら正しく教えない文部科学省の「英語教育」で果たして「国際化」が 進むのだろうか。もちろん、答えは「NO]。 日本はかつての総理大臣が「日本は単一民族の国」と言うほど孤立閉鎖的な国であった。 外国からの「移民」を受け入れるという発想がなく現在でも先進国の中でも難民を最も受け入れていない 国なのである。そのため「目の色」「皮膚の色」などで日本人と区別する思想が根付いていた。 すなわち「外人」呼称である。日本(内)ではない「外」の人という意味である。 歴史的に古いところではスポーツの世界では「外人選手」、芸能界では「外人タレント」等々。 「外国人」と言い始めたのはほんの最近である。 あるアフリカ系カナダ人がこう言っていた。 「日本にはまだ、『国際化』は存在していない」、と。 「国際化」に必要なのは、頭髪・肌色・民族歴史などを「あるがままに」受け入れるところから始まる。 日本人の最も不得手とするところの一つとして「お互いの違いを『違い』として認める」こととよく言われる。 「違い」を「区別」して優越をつける発想から「差別意識」が生まれる。 同じ「外国人」にもかかわらず東南アジアの国の人々(韓国・中国・台湾等)には多少の親近感は抱いて いるにもかかわらず、戦前からの歪んだ教育の名残から「蔑視感情」を持っている日本人も少なくはない。 英語の授業を取り入れている小学校の割合が90%にもなるという福岡県では「外国語指導講師」と 呼ばれる外国人が年間を通して指導しているという。 その講師たちの実態はわからないが、せめて「白人講師」でななく前述の「アフリカ系カナダ人」のように 肌の色が黒い人でも「英語」を話しているという事実を小学生に体験させることのほうがズット、より世界の 人を幅広く理解する一助になり少しは「国際化」に近づくかも知れない。 <2003.5.11>
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