| 【民度・続き】 |
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自由民主党の小泉純一郎総裁の下で最初の衆議院選挙が公示された時、 社民党の土井党首が「一番恐ろしいのは人気者の顔をしてやってくること」と言う TVのCMが何故かボツになった。 今から思うとまさにその「恐ろしさ」が現実となっている。 派閥の寄り集まりの自民党という集団のなかで、主流派閥出身ではない小泉にとって 反対派閥を「抵抗勢力」と位置づけ、それに対抗する自分を「改革のヒーロー」に仕立て 国民の共感を得た。これにより一時は80%にも上るような内閣支持率が出現し、今でも 様々な事件により下がりはしたが依然高い支持率を保っている。 この内閣支持率とは法的には全く根拠のない数字ではあるが、各種のメディアがそれぞれの手法で 日本国民のほんの一部の人間に対して行った電話によるアンケート結果の 数値であり大手新聞なども大枠としてはほぼ同じ傾向を見せている。 従って内閣の長である小泉首相は「自分は国民に高く支持されている」と信じている。 これによって成立した悪法の数々についてはここでは特にコメントしない。 今回のテーマは、こんな小泉首相を支持しているといわれている国民の「民度」である。 民度とは何か?本多勝一氏の定義を一部借用すれば、国民がまわりの流れに押されず、 自分でものを考え、歴史や地理からどのくらい教訓を得ているかの度合いである。 そしてそれは政治の世界に重大な影響を及ぼす。 オジサン流に言えば「民度」は「国民の成熟度」とも言える。 それらの観点からみれば日本の「民度」は大変お寒い状態ではないだろうか。 では日本の民度はどの程度かと問われると、残念ながら世界の平均に遠く及ばないほど低いと言わざるを得ない。 絶え間ない流行、同質性を最重要視する気風、戦争の被害を被っても相変わらず跋扈する軍国主義、 私生活に逃避する社会的無関心、などどれをとっても悲観的な材料ばかりである。 これに対してイギリスなどは、少なくとも現在においては、国内的には民度は比較的高いといえる。 過去においてはかなりひどい時代もあったが、国内政治に関してはそれなりの経験を積み、 能率的な自治体、適当な政権交代など、それなりのバランス感覚を獲得しているようだ。 国民はその程度にふさわしい政府しか手に入らない」と言ったのもイギリス人だ。 イラク侵略戦争の口実であった「大量破壊兵器の存在」の信憑性についてイギリス国民は 正式にブレア首相を批判・非難しているととと、ブッシュに盲目的に従ってアメリカの侵略を支持した 小泉首相に対する日本のマスメディを始めとする国内世論とを比較すれば一目同然であろう。 ところで、国外に出ていった(元)イギリス人は概して民度が低い。 それとも民度が低いのが出ていったのか?(これは歴史的調査が必要だ。) その典型がアメリカであり、奴隷制度、禁酒法、ベトナム侵略、マッカーシーの赤狩りなど愚かな過去の事件が、 国民のサイレント・マジョリティ(声なき多数)の合意のもとに行われたことを考えると、 大国としての危うさを感じる。 日本の民度は、まわりのアジア諸国にも確実に追い越されつつある。 優れたリーダーが輩出すると、そこで民度は大きく進歩するものだ。 マルコスを倒したフィリピンのアキノ、スハルト追放のあとに登場したインドネシアのワヒド、 代々の軍事独裁政権からやっと脱皮できた韓国のもとでの金大中、などはそれぞれの国の 国民の意識を大いに高めている。南アフリカでは、アパルトヘイトをなくした、マンデラの名前も忘れられない。 これに対して日本での総理大臣は完全にクズばかりであり、特に終戦間もない頃に戦争犯罪人や、 アメリカや財界と癒着した政治家が、首相になったために、すっかりそれが現在に至るまで定着してしまった。 昔からある、談合、密室決定、順送り、問題の先送り、など悪い習慣を総て受け継いでおり、 国民もそれらに慣れているから、余りそれらに文句をつけることもない。 しかも、日本では政治家2世が横行し、汚職議員が何度でも「郷土の誇り」として再選される。 選挙民には羞恥心は存在しない。「ドン百姓」という言葉が差別語ならそれでいい。 差別せざるを得ないほど、民度は絶望的に低いところにとどまっているのだ。 どこの国でも民度の低い選挙民に甘いエサをやって選挙で勝つというパターンは存在するが、 日本ではそれだけでなく大企業との癒着もあって、益々動きがとれない状態になってしまっている。 このとき民度が高ければ、それを徹底的に調査し糾弾して、自分たちの置かれている状態を 改善できるはずなのだが、それを指導する者も、勇気を持った者もほとんどいない。 仮に出てきても、「アカだ」というようなステレオタイプによって葬り去られる。 民度が低い場合、のけ者にされることが最大の恐怖だから、離脱者や独立独歩の者がいないのである。 民度はさらに、同質性を重んじる風潮によっても低くなる。隣の家と同じ家具を持ったり、 同じ年代で同じ服装をしないと不安を感じる社会心理は、太古の昔から独裁者たちのかっこうの 道具になっていたのだが、残念ながらそれに警鐘をならす人は少ない。 たしかに現在のような大量消費社会では、流行が経済繁栄の大切な基礎にされている。 みなが同じ大量生産の製品を買ってくれるから、大量消費が起こり、経済が成長するという段取りだ。 だが、それが社会意識の領域にまで入り込むと、人々の判断力まで奪う。 かつて衆愚政治の危険を唱える学者がいたが、現代ほどその危険が差し迫っているときはないのではないか。 もし通信網が不備なら、情報の行き届かない人々を統制することは難しいが、 民度の低いところに持ってきて、情報操作を巧みにやれば、多数派を形成することは実に簡単だ。 この「多数派」という、民主制度を逆手にとった権力の握り方が民度の低い社会では最も怖い。 民主制度の根本は多数を占めることではなく、話し合いによる少数派との「妥協」のはずなのだが、 それを認識できる人はごくわずかだ。 このような状態では民度が高まるはずはない。せめて、世界中で時おり見かけるような、 賢い指導者が現れてくれればいいが、残念ながら、日本はそのような指導者がのびる余地はない。 この国は、大部分の南アメリカ・アフリカ諸国やかつての韓国や南ベトナムと同じく、 軍事独裁的な人間が人気を博すレベルの民度しかないのである。 もっと民度を高めることはできないのだろうか。民度は教育と経験によって培われる。 民度は伝統的に個人の判断力を重視する雰囲気の中でのびて行く。 ただ、せっかくあるレベルに達しても、ちょっとしたきっかけで世代間の断絶が起こりその蓄積は無に帰す。 これからもさまざまな試練が待ち受けているだろうが、日本人の民度は今のままでは、 決定的に壊滅的な方向を向いているとしか思われない。 残念ながら悲観論のほうがはるかに強いのである。 せめて今年の秋には行われるだろう衆議院選挙では、9割の国会議員が賛成する有事法制を 成立させた議員は選ばないという程度の「民度」を示すときではないだろうか。 <2003.7.20>
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