MIC総会宣言

 今世紀最後のオリンピックも間もなくその幕を閉じ、新しい世紀へのカウントダウンがいよいよ始まろうとしている。
 「戦争の世紀」と総括される20世紀、その前半に戦火の災厄を全アジアにもたらした日本。果たして後世の歴史家は、戦争を廃絶しようとする地球的な営みへの今世紀後半の日本の貢献を、いささかでも評価するだろうか。
 衆参両院には「憲法調査会」が今年、設置された。そのメンバーの大半が、改憲を所与の前提としている。2度と戦争は繰り返さないという、憲法九条に凝縮されたあの固い誓いは、いったいどこへいってしまったのか。
 この夏に開催された沖縄サミット。日本の総理自らが「沖縄万博」と言い間違えたと伝えられ、「壮大なる宴会」と外国メディアからは揶揄されたこの会議で、沖縄の基地の問題は最後まで論じられることはなかった。
 冷戦が終結し、朝鮮半島での南北首脳会談も始まった今、世界平和への新たな構想を描くために、沖縄は絶好の舞台となったはずだ。サミットが終わって明らかになったことは、沖縄県民を黙らせることにしか、その目的がなかったという日本政府の貧困で邪悪な意図だけである。
 あの盗聴法が終戦の日の8月15日に施行されたのは、単なる偶然だろうか。報道機関は対象にしないという成立当初の約束はいとも簡単に反古にされようとしている。「強制はしない」はずだった国旗・国歌法も、君が代斉唱を拒否した教員が当たり前のように大量に処分されている。在日外国人を「三国人」と呼んで恬として恥じない東京都知事は、銀座に装甲車をパレードさせて、反対する者こそ異常なのだと悦に入っている。
 リストラで職を奪われた中高年の自殺者が激増し、職安に毎日足を運んでも仕事が見つからないのに、失業保険の給付が切り下げられる。その一方で、金融システム安定化と称して銀行に、公共投資と称してゼネコンに、巨額の公的資金がとどまるところなく注ぎ込まれ続ける。

 私たちマスコミ文化情報産業にも、表現の自由、報道の自由を脅かす動きが日増しに強まっている。個人情報保護法、青少年有害環境対策法と、経営者が自律によって真剣に報道被害や過激な性・暴力表現の問題を解決しようとしないままに、権力による規制の網が一挙に強化されようとしている。
 「自由主義史観」なるものを標榜し、歴史認識を一気に戦前に逆戻りさせようとする教科書への攻撃も、政財界の強力な支援を受け、さらに執拗に続けられている。
表現の自由を実質的に保障する上で、日本の文化に大きな役割を果たしてきた再販制度を廃止に追い込もうとする動きも、来春の再見直しに向け、予断を許さない状況にある。
 司法の世界では、これまで判例法理として確立していたはずの「整理解雇の4要件」すら、いとも簡単に否定される反動的な判決が相次いでいる。今や日本の裁判所の異常さは国際的にも広く知られるところとなり、従軍慰安婦や強制労働の犠牲となった世界の人々は、こぞってアメリカの裁判所で、日本を相手に訴訟を起こしている。

 時代は今、大きく舵を切ろうとしている。
 労働組合の存在とその果たすべき役割が、今ほど厳しく問われている時はあるまい。雪印で、そごうで、三菱自動車で、労働組合はいったい何をしていたのか。
 バブルの狂乱の後始末を誰もがつけようとしないまま、「空白の10年」と言われる長い停滞を、日本経済は抜け出せないでいる。働くものへのリストラや能力主義・成果主義の荒波は強まるばかりだ。最低賃金制度にも届かない低賃金で、若い労働者が派遣や「フリーター」として、健康破壊と隣り合わせの過酷な労働を余儀なくされている。
 経営者が、日本の資本主義の特質とされた終身雇用や年功賃金をかなぐり捨て、労働者にのみ犠牲を転嫁しようとする中、日本の労働組合だけが従来の企業内組合の殻に閉じこもっていては、対抗力を持ち得ないことは明らかだ。

 これまでの産別労働組合の限界を乗り越えるために、MICに寄せられる期待がいよいよ高まっている。「IT革命」がいかに喧伝されようと、次の世紀にも、文化を担い得るのは人間以外にはない。私たちは市場の論理に、人間の論理をこそ、対置させようではないか。
 私たちは今日、20世紀最後のMICの総会で、私たちMICに結集する労働者こそが、21世紀の運動の最前線に立つことを決意し、内外に広く宣言しようではないか。
 21世紀を共存と平和の世紀とするために。

2000年9月30日
日本マスコミ文化情報労組会議 第39回定期総会